スマイル津川のひとくち に戻る
■3月28日(木)
そう汗を流そう。それもお客様と一緒にという思いで、ハワイのアイアンマン、ダブルアイアンマン、ニュージーランド、カナダアイアンマン、そしてウルトラマンと国内を含めて27回のトライアスロン大会に出場し、ツアーの営業、添乗員として、自分も一緒に楽しんでいました。

■3月26日(水)
当事、旅行業の中でも海外旅行の団体セールスを担当し、海外の流通業のツアーを取り扱ってきましたが、その中でハッとするようなビデオを見てしまいました。それが1982年2月のハワイのトライアスロン アイアンマン選手権の女性トップランナーであったジェリーモスの映像でした。這ってゴールしたあのシーンは全米を唸らせ、私の心にも大きな波がおこりました。感動シーンはいつまでも心に残り、仕事、仕事と思っていた中にすっぱりとあのジェリーモスが入ってしまいました。

■3月25日(火)
さて、楽をしようと思ったのではなく、他人様の飯を食べてみたいという自分の気持ちと親父がぶつかり些細な事で勘当され、約3年間、音信不通となりました。でもその3年間が自分にとって新しい勤務先を選び、無我夢中で仕事に没頭し始めていた時期だと思います。よき先輩、同僚に恵まれ、「旅」という仕事を通じて、出会い、ハプニング、クレーム、感激、感動がいろいろ体験ができました。

■3月20日(木)
勿論、日曜日の早朝のみだけの話です。合わせて酒さえ飲まなければ。スパルタ教育であったかどうかは定かでありませんが。スパルタ教育にイメージの強かった親父であったことは事実です。そんな親父に相対して子供側に立ってくれたお袋の姿が、苦労をかけてしまった事がいつまでも反省させられます。子供の頃の親のうしろ姿は生活そのものが滲み出ており、豊かさとは遠いものでした。

■3月17日(月)
それが野球でした。日曜日の荒川の河川敷グランドで長男を中心にして町内会の野球チームによく協力していました。外面がよく、内面のよくないと思えた親父もキャッチボールをやっている時は、お酒さえ飲まなければいい親父でした。私が16歳の時、今度は自分が中心になり、町内会のサッカーチーム作りを始めた時もスポーツに対しては少しは理解をしてくれていました。

■2月28日(金)
お金があってもなくても、酒を好み、なんとか文句を探し、殴る蹴るして、しばらく家を出て行ってしまう親父でした。学校では一切クラブ活動の参加を認めず授業が終わり次第、真直ぐに家へ帰り、家業の下敷き屋さん(硬質ビニール加工)の「けとばし」の機械を踏む毎日でした。酒に暴力に厳しい親父にもひとつだけ理解があることがありました。

■2月27日(木)
今はもうありませんが旭電化の工場と荒川を結ぶヘビ道(へビのようにくねくねした道だから地元の人はそう呼んでいました。)が恐く、早く通りすぎればと。また、小学校の同級生の近所を走る時のスピードは相当速かったと思います。なにせこっちはパンツ1枚になのですから。これが私のマラソンとの最初の出会いだったように思います。

■2月25日(火)
「ばかやろう!」「3人共、連帯責任だ」「罰直だ」(私の親父はよくこの言葉を使っていました。恐らくは軍隊内でのスラング言葉なのでしょう?)「パンツ1枚で荒川を走ってこい!」と殴られた顔の痛さも忘れ、ただ、親父の迫力さに押され、なぜ怒られたのかもよく分からず、ただ、我家の男3人兄弟が一緒になり、私は兄2人に遅れまいとただひたすら走るだけでした

■2月17日(月)
題「金剛山」
今年の北朝鮮金剛山マラソンは陸路国境を超えていきます。昨年までは船でした。今までの常識では考えられませんでしが、観光に対しては門戸を開いてきています。世界各国から約180名のランナーが参加します。金剛山の素晴らしい景色を堪能されることでしょう。カムサハムニダ(ありがとう)
当社では北朝鮮のマンギョンデ国際マラソンを只今募集中です。妙香山も見学します。詳細はツアー情報をご覧になってください。

■2月14日(金)聖バレンタイン
涙を出しきった後の顔はさっぱりと、そして、笑顔になっていました。子供たちも一緒に伴走してくれた。夢にみた最後の5段の階段を昇り、そっとレオニダ王の像の左足に膝まつきました。「王様。援軍を!」紀元前490年。2481年前に戻った。私のタイムトンネルの旅もやっと終わることができました。
■2月13日(木)
スパルタ人口2万人弱の人々の応援とサポーターの協力に感謝しながら最後の小さなスロープの昇り、この道を右へ曲がればレオニダス王が約200メートル位先にある。私の姿がなかなか見えないので、最後のカーブの所では、ザハリアスと吉川さんが最後の声援を送ってくれてました。

■2月12日(水)
家族の一人一人。会社の人達の応援。ランナー仲間応援。一人一人の顔と名前を声に出しながら自分が走っているのです。それも涙を流しながら。
親の死に目に出た涙とは違うのかもしれませんが、涙が止まりません。最後のエードステーション245.3キロ。スパルタの街へ入る橋の手前で涙は止まりました。ザハリアスから最後のドリンクをもらいかっちり握手。あと1.8キロ。橋をすぎ、スパルタの入り口に入ると何かもったない気持ちになり、走るよりもウォークする方が多く、私の後ろに付いた誘導係りのおまわりさん(白バイ)も「やったね!!」と合図しながら伴走してくれます。

■2月10日(月)
220キロ程の手前で、サポートのへルプを受け、また、日本から持参した「リゲイン」を1本飲み「よし行くぞ」と声に出して走り続け、多少のアップもありますがエンデングのスパルタの道は、ほとんど下り坂。すれ違う車からクラクションをならされ、もしかするとスパルタを通ってきた車だろうと推察をし、、まだ手を振って答える力が残っていました。夢にまで見たレオニダ王の像へ向かう最後の右へ曲がるカーブが自分の前にあるのではないかと。下り坂とカーブの連続。うっすらとスパルタの街が見え隠れしはじめ、遠く日本から応援してくれている人々の顔が浮かび、ひたすら「スパルタ。スパルタ。スパルタ」とお呪いを唱え、前へ前へと足が進むではありませんか。

■2月7日(金)
 最後のカットオフポイント、テゲア(195キロ)を過ぎ、気温もどんどん上昇し、午後1時頃には気温は35度前後まで上がり、各エードステーションの水を頼りに、またサポートの皆さんの応援が気持ちを前へ前へ進めてくれました。245.3キロの道のりは208.1キロで半ばとすべし。私の1989年リタイアした208.1キロは何ら変ることなく、2年前の景色と一緒でした。記念の思い出の場所に足をとめ、自分とサポーターのザハリアスにしかわからないこの場所を、そっと一人で「ありがとう。208.1キロさん」そう素直に声をだしてしまいました。

■2月6日(木)
ザハリアスと村松さんの奥さんが元気に声をかけてくれて励ましてくれます。スタート後約27時間45分選手はひたすら走ればいいのですが、サポーターはいつくるかわからず車を運転し、ほとんど寝てない状態での応援。なんのために、今、自分は走っているのだろう。自分一人では何もできないことが、待っててくれる人が、ザハリアスを中心とするサポーターにいてもらい少しずつ3年もかかってやっと私もザハリアスファミリーの一員に加わろうとしているのかもしれません。

■2月5日(水)
このあたりから、3人のウォーク、ランの繰り返しが続いてきます。夜明け近くなり気温も相当下がってきており、明け方は8〜10℃くらいの気温のようでした。テゲアに近づく2キロぐらい手前で選手の小島くんに会いましたが、足の調子が悪くこのまま歩き続けるという覚悟でおりました。最後のカットオフのポイント、テゲア、2年前の2度目の爆走で時間ぴったり(オンタイム)で入ったことを思いだしながら到着。カットオフ約15分前。

■2月4日(火)
ネスタニをしばらく行ったコースで2回目のコース間違いをしてしまいました。暗い中矢印を確認していったコースがどうもようすがおかしく、間違えてしまったのではないかという不安が先走り、逆行してもどろうとした時に、間寛平さんの明かりが見え、合流することができました。よくよく冷静に考えてみると間違ったコースは、迂回をして元の道へ合流するコースだったようです。

■2月3日(月)節分です。豆まきしよう!!
第4チェックポイント、ネスタニへはカットオフ約30分ぐらい前。時刻は午前5時30分頃、このあたりで懐中電灯の調子がおかしくなり、ネスタニでザハリアスに懐中電灯を手渡しこの暗さでもなんとかなるだろうと。足元だけを注意しながらネスタニを出発。私の懐中電灯も3回目。よくも、まあがんばってくれました。

■1月31日(金)
峠の頂上は風が強く、今度は下り坂がランナーの足に響いてきます。峠をなんとか下り、ネスタニまでの暗い道をエードステーションでも止まらず、歩きながらドリンクを飲み、1歩でも前へと思う気持ちでした。ネスタニまでのこの道のりは1989年爆走した区間です。今回はちょっぴりコースが良く見えてます。こだわればこだわる程少しずつ物事がよく見えてくるのでしょうか。走り方も、ペース配分も


■1月30日(木)
長い長い昇り坂が6〜7キロ続き、サンガス峠への昇り口へ到着。温かいスープを一杯飲みながら、峠への昇りを開始。この場所で前後して走っていた陶山さん、間寛平さん、と3人が一緒になっていました。サンガス峠は石ころが大小沢山あり、その峠だけ昇ることだけであれば、そう厳しくはないのかもしれませんが、すでに160キロを走っているランナーにとっては、1歩1歩をただ進めるだけです。峠の途中には寝袋に包まって待っていてくれる誘導員(兵隊さんが3〜4人)がコース上でヘルプをしてくれます

■1月29日(水)
第3チェックポイント、リルチアへの手前の急な下り坂途中で間寛平さんと一緒に道を間違えてしまい、2人でいるからという気持ちが勇気付けてくれ、リルチアもカットオフ約45分ぐらい前に到着しました。私のクルー、ザハリアスがテーブルとイス、テーブルクロス、ドリンク類をオフィシャルのテーブルと他の選手が間違えてしまうくらいびっちり用意してくれました。時計はすでに夜中の1時15分頃。リルチアからはサンガスの峠をめざして、と言ってもサンガスの峠はなかなか目に入ってきません。

■1月28日(火)
ザハリアスも私のサポートが3回目、アイスボックス、テーブル、イス、タオル、そして今回はなんとテーブルクロスまで準備をして私をリラックスさせてくれまた。来年はテーブルの上に花を用意しようとザハリアスと村松さんの奥さんの会話が私の心を和ましてくれました。

■1月27日(月)
コースの上の村や町へ入ると小さなレストランなどでは人々が集まり、拍手とともに、また子供たちも伴走したりして応援してくれます。2000年以上前のコリントスの遺跡、アクロポリス(都市国家)を見ながら、ただコースだけではなく、今年は回りの景色もよく見れるようになっていました。第2のカットオフポイント。ネメア。124キロ制限時間、スタート後16時間ネメアにはカットオフ約1時間前。夜9時頃到着。すでにすこしずつ気温は下がってきてはおりましたが、アソスの村で手に持った懐中電灯を頼りにザハリアス、村松さん、奥さんのサポートを受けました。


■1月24日(金)
コリントスのエードステーションも約7〜8分の休息で出発し、いよいよ少しずつ小さな農場へと入っていきます。コリントスを過ぎ、約88キロぐらいのエードステーションで選手の陶山さんに会い、そのエードステーションでは陶山さんはもうこの足の状態ではちょっとだめなんだと諦めかけておりましたが、その後、3人、陶山さん、間寛平さん、そして私の3人が約200キロぐらいまで前後しながら一緒に走ることになるとは誰も思ってもみなかったことです。

■1月23日(木)
最初のコリントスでのサポートクルーのヘルプ、ザハリアス、村松さんの奥様、そして常に日本人のお手伝いをしてくれている現地在住のケイコさん。お赤飯とバナナ、ポカリスエット。日本人選手の渡辺さんのサポート、コーチ役をしていた坂本さんにも特別にマッサージをしてもらい、プロの坂本さんの迫力あるマッサージには、また選手を元気ずけようとする姿勢には頭が下がりました。

■1月22日(水)
今回の私は前半の各エードステーションではほとんど休まず、飲み物をとったら止まらずに歩きながら飲んで行くことができました。これも一歩でも前へという気持ちと、苦しい時の私のお呪い「スパルタ、スパルタ、スパルタ」と自分に言い聞かせながらやっとコリントスへ到着。スタート後10時間以内の制限時間でしたが、約8時間40分くらいの到着。今回の大会から自分のサポートクルーと会える場所は17ヶ所と増え、選手にとってはいい条件になっていました。

■1月21日(火)
私の過去2回の失敗の経験から「100里の道は90里で半ばとすべし」と同じように「245.3キロの道は208.1キロで半ばとすべし」この208.1キロは1989年私がリタイアした場所の意味です。絶対に完走するのだという気負いよりもコースの厳しい条件の中で自分がどれだけ順応できるかということだと思います。約60キロくらいの所でランナーの間寛平さんに追いつきました。彼は各エードステーションで確実に休み、私より少し早いペースで走っておりました。
→あへあへ寛平ちゃん。この後も一緒に走るのでした。つづく

■1月20日(月)
一度、他の外人選手が私の目の前で、カロリーメイトを飲んでいる姿を見ましたが「これはうまい。このドリンクはどこで入手できるのか?」私は大塚製薬の社員になったつもりで一人でもカロリーメイトファンができればと思い寛大な気持ちになってしまいました。コリントスまで81キロのコースは気温も上がり、小さなアップダウンもあり、スタートから1キロ6分ペースで走っていた私も50キロ位からペースダウンし、少しずつウォークを入れながらのコンビネーションランに切り替えて行きました。左にエーゲ海を見ながら一人なって走っている時に何を考えて走っているのか。景色。この大自然の中での小さな自分。

■1月17日(金)
街中は市民も興味を持って応援してくれますが、アテネ市内、ギリシャ全体を通じてもスパルタスロンに対する理解者は少ない様です。
ゴールのスパルタまで75ヶ所のエードステーションがありますが、今回私は約10Kmごとにカロリーメイトのドリンク1本。食べる方のカロリーメイト1本を準備してエードステーションに置いておきましたが、実際には4〜5箇所のエードステーションには自分のスペシャルドリンクを見つけることはできませんでした。

■1月16日(木)
スタート午前6時、気温は約18度。あたりは真っ暗。スタートのピストルの音は今年も鳴らず、スタート後約15秒ぐらいしてから、やっとピストルの音がしてレースの内容と同じ、のんびりと出発したのです。市内の中心を抜けるまでは、パトロールカーでの誘導、交通整理が行われており、わずか19カ国73名の選手のために協力してくれます。それぞれのペースで街の中を走ってはおりますが、最初の元気なペースが気持ちよりも体が先にでているのかもしれません。どうせ後からくるペースダウンを頭に描きながら。

■1月15(水)
八田さん、中山さんとは1989のトライアスロン・アイアンマンカナダが最初の出会いでした。カナダのペンティングトンで行われたレースで、ゴールラインでお二人が結婚式を挙げた際にお手伝いをした仲間です。今、このギリシャで一緒にスタートラインに立つのも何かの縁のようです。

■1月14日(火)
レース大会3日前到着とぎりぎりにアテネに入り、時差ボケがとれず、さすがレース前日は緊張感より睡眠不足のため、ゆっくりと眠ることができました。1991年の大会は例年より1時間早いスタート。午前6時。当日は5時間の睡眠後、午前3時起床。朝食はお赤飯2人前(インスタント)バナナ2本。りんご1個。味噌汁(インスタント)一杯と、カロリーメイト一本。そしてトイレを済ませサポート役のザハリアスとホテルのロビーで会い荷物の積みこみを済ませ、午前5時にホテルを出発。車で約5分。スタートの古代オリンピックスタジアムへ到着。星空の下スタジアムはオリンピックのシンボル5輪のサインボードが浮き出しており、まだ他の選手は一人も到着しておらず、古代オリンピックスタジアム内のトラックを日本人の選手、八田さん、中山さん、とゆっくりとジョギング。これも3周です。3度目の3にこだわっているのかも。

■1月8日(水)
エントリー会場での何人かとの再開。日本からの参加者、村松さんご夫妻。吉川さん。そしてあのギリシア人。マリオスとの2年ぶりの握手。24才のマリオスは落ち着いた物腰でやさしい目が前回とかわらず印象的でした。吉川さんも1990年スパルタアスロン完走の際、マリオスとの伴走、そしてドラマがあり、吉川さんにとってもマリオスにとの再開は一つの目的でありました。吉川さん、マリオス、私、3人の気持ちはいつしかレース中の内容よりも言葉の問題を乗り越えて、お互いの気持ちを伝えようとする、素直な子供のような優しさが漂っていました。

■1月7日(火)
勝手をしったる箱崎町東京シティーエアーターミナルも成田空港も、久々に新鮮に見えています。長男が東京シティーエアーターミナルまで見送りに一緒に来てくれ、「がんばってね!」その一言を胸におさめて、大会4日前の出発となりました。アテネ空港でのハプニング。荷物が出てこない。よくあるパターンではあるが、走る際のクツのことがちょっぴり心配でした。しかし大会2日前の夜にやっと荷物も見つかり、大会前のちょっとしたハプニングでした。スパルタアスロンは何があってもおかしくないレースですが、その準備前のレースはすでにスタートしているようでした。

■1月6日(月)
いつか、かならずスパルタへ、そして、あのマリオスとの再開。スパルタを夢見て、心の中で決心したのでした。1991年30才代最後にできること。スパルタへ忘れ物をとってこようと。レオニダ王の像の左足に跪いてくることを。。。。1991年9月22日。3度目のギリシアへ出発の前日。レースに使う帽子に家族が寄せ書きをしてくれました。長男 大(ダイ)は「めざせ完走」 長女 和江(カズエ)は「がんばれ。おとうさん。めざせゴール」そして次男 力(リキ)「おとうさん。がんばれ」と。また、女房からはただ一言。「4回目ギリシアへ行くお金はないよ!!」と。今まで旅行業の仕事柄常にお客様と一緒に添乗員として動いていたものが、ただ一人での出発。。。。

■12月27日(金)
あと37.2キロ。約4時間。厳しい時間と距離だったと思いますが、この208.1キロのポイントは忘れられぬポイントになることを。私はこのポイントでオフィシャル立会いのもとでゼッケンをはがされ、リタイヤのサインをせざるえませんでした。気持ちだけはスパルタへ向かってましたが。。。。。。
このレースが1989年のスパルタアスロンのレースのエンディングでした。スパルタアスロン2回目の挑戦だった。一度目は1988年。寒さと眠気で132キロでリタイア。そしてこの2回目も失敗。このレースは他の今までの大会とは違うことがよくわかりました。

■12月26日(木)
ウォークランを続け、テゲアを過ぎると長い長い昇りのコースが続くのです。そのうちに、3〜5キロ置きにあるはずのエードステーションがなかなか目の前に現われず、オフィシャルカーたちも確認してもらうべくしばらく前方へ車を走らせ、役15分くらいしてオフィシャルカーが私のところへ戻ってきてくれました。すでに30度近い暑さの中、オフィシャル曰く、「津川っ!!水はもうない。決められたエードステーションはもう撤去してしまった。ノーモアウォーター」と。。。。一瞬、目の前がくらくらしてしまいましたが、大会ルール上、従わざるえないと。水がなくてはこの暑さの中では無理という判断がされ、208.1キロ。残り37.2キロ。すでにスタート後32時間が経過しょうとしていました。

■12月25日(水)クリスマス★
オフィシャルカーが付き、どうも私がレースの中で最終ランナー生き残りと知らされ、オフィシャルカーがそばにいるとのことでした。あと何キロ、何百メートルかをオフィシャルカーに確認しながらテゲアへの村へ入り、カットオフの時間どおり、オンタイムにテゲアに入ることができました。爆走はもう二度とやるまいと思ったことをまたやってしまい、体はボロボロの状態でした。エードステーションでザハリアスのサポートに助けられ、元気付けられ、残り50.3キロを8時間以内で走ればと。

■12月24日(火)クリスマスイブ★
しかし、とうとうマリオスが、どうしても続けられないというサポーターとの話になり、とうとうサポーターの車の中から私を応援してくれることになってしまいました。雨に打たれて冷え切った体には気持ちの落胆は隠せませんでした。なんとか私一人でもテゲアまで制限時間に入れるように気持ちをしっかりする様、勇気ずけているのですが、足がなかなか進みません。ネスタニ〜テゲアまでの23Kmがなんと長いことか。。。。カットオフまで約3Km残り時間が14分30秒。もう一度やるしかないと爆走を試みました。

■12月20日(金)
雨の中で私がスペシャルで置いていたカロリーメイト(ドリンク)の缶のキャップで手を切ってしまい血がなかなか止まらず、マリオスも色々と気を使ってくれましたが、血が止まらず,約1時間後にバンドエードを入手できて応急手当をしてもらいました。私以上にマリオスも爆走が効いており、テゲアのカットオフまで行けないと弱音をはきました。私は強く「マリオスがいたからここまで走れたんじゃないか」と励まし合いました。お互いのダメージを確認し合いながら、一歩でも前へ前へと足を進めていきました。

■12月16日(月)
爆走という言葉が当てはまるかどうか分かりませんが、あとのツケを知らずしてか、先に着いていたマリオスと約7〜8メートル離れてお互いにサポートの給水を受け取りながら、目と目が合い同じ顔をして、同じ気持ちになっていました。約5分程の休息の後、最終チェックポイント、テゲアに向けてマリオスとスタート。少しずつ雨が降り始め、体が冷えて、精神的にも先程のネスタニへの爆走が足に効き始め、重い足取りでマリオスとウォーク・ランを続けました。

■12月13日(金)
声になるかならないか「マリオス。マリオス」とまた叫び続け、彼はすでに私の前方の約150m位先を走り、最後の昇りにさしかかる頃、大会のオフィシャルカーが大きな声で私に向かって叫んでいるのです。「津川っ!津川っ!津川っ!」と。そして最後の昇りを終えてネスタニの街道に入り、広場へ入る最後の手前のカーブの所で、今度は私のサポートのザハリアスが待っててくれて、なんとか最後の200m位を徒競走の様なすピ−ドで一緒に走ってくれたのです。カットオフ、15秒前の滑り込みセーフのネスタニでした。

→ギリギリ間に合ったところでつづく 
■12月12日(木)
やっと一緒に下りたエードステーションでは「あと4Km程でネスタニ」と言われるが、マリオスは「あと7.5Kmある筈だ」と、言います。ネスタニでのカットオフまで約33分しか残っておらす、マリオスが私に怒鳴っています。「津川!!行くしかない。ネスタニだ。」私も頭はボーっとしているがマリオスの姿だけをひたすら追いつづける。多分すでに160Kmをい走りつづけた後の7.5Kmを33分。行くしかないと腕を一生懸命振りながら心のなかでマリオス。マリオスと叫んでいました。コリントス・トリポリハイウェイを横切りあと2Km時間があと9分30秒。。。。
■12月9日(月)
「スパルタスロン 1991」 第3話〜マリオスとの昇り〜
第2チェックポイントのネメア到着がカットオフ約20分前。第3チェックポイントのリルケア到着がカットオフ約10分前。リルケアからサンガス山(峠)までの昇り、マリオスが約100mぐらい先をリードして引っ張ってくたおかげで、サンガス山に登手前のエードステーションで追いつき一緒に45分で頂上に着きました。それからきつい下りがはじまります。

■12月6日(金)
「スパルタスロン 1991」 第2話〜マリオスとの出会い〜
1989年の大会では調度、私が第2ポイント124キロのネメアを過ぎ、130キロ地点で初めての出会いがありました。走りながら話しを聞くと、スパルタスロン完走者の西村さんのサポートをお手伝いをしたということで、お互い親近感が沸き、それからほとんど長い間伴走する事となりました。当事22歳、身長175cmくらい、髭をはやし、面長でよくよく見るとあの西村さんによく似ているではありませんか。こちらは気軽に「マリオス、マリオス」と声をかけていますが、マリオスもちびっこい日本人とのチビデカコンビでペースを配分をしてくれたように一緒に合わせて走ってくれました。

■12月5日(木)
「スパルタスロン 1991」 第1話
私とマリオスとの出会いはスパルタスロン1989の大会でした。スパルタスロンにはコース上5カ国のカットオフポイント(制限時間)があります。第一ポイント、アテネ〜コリントス81キロをスタート後10時間以内。第2ポイント、コリントス〜ネメア124キロをスタート後16時間以内。第3ポイント、ネメア〜リルケア148.5キロをスタート後24時間以内。第4ポイント、リルケア〜ネスタニ172キロをスタート後24時間以内。第5ポイントはネスタニ〜テゲア195キロをスタート後28時間以内。そしてゴールのスパルタ245.3キロへスタート後36時間以内に到着しなければならない。

■2003年12月4日
「モロカイ島・モロカイ・ブレッドを食べる」最終話
また,モロカイ島はモロカイブレッドだけでなく、モロカイコーヒー・対岸のラナイ島の西側に沈むサンセット・夜のモロカイ島に広がる満天の星の数々・そして流れ星・野生の動物・鳥・フラダンスの発祥の地等。
モロカイ島はなにも無いのは嘘です。沢山の自然が残された島です。
「おら・こんな島・ヤダー」から「おら・こんな島・イイー」ヘ変って行きますよ。
アロハスピリッツのあるモロカイ島へ
  Have a nice stay,Molokai
アロハ(LOVE:愛)
 コクア(HELP:助け合い)
  オハナ(FAMILY:家族)

■2003年12月3日
[モロカイ島・モロカイ・ブレッドを食べる] 第2話
さて,モロカイ島最大のカウナカカイの街。車が走るより馬車が走るのに似合いそうな町並みです。車では1分で通りすぎてしまうこの街・カウナカカイの中心地にあの「モロカイブレッド」と呼ばれる「カネミツベーカリー」がそこにあるのです。
しかし、そのモロカイブレッドはお店で購入することも出来ますが、地元の方は、夜10:00頃からお店の裏手にある工場の前に並んで購入しているのです。古ぼけた工場の前に夜11:00ころになると列が10〜20メートルと列が続いて行きます。誰がいうともなく順番にドアーが開き,あいそのない工場のひとが注文をとります。直径20センチほどの円いパンです。パンの間に4種類のフレーバーがえらべます。クリームチーズ・ジェリー・バター・シナモン。
4フレーバー付き$4.50 2フレーバー付きは$4.00です。たったこのパンを求めてどこからともなく地元の方々が買いに来るのです。それも夜の10時・11時に並んで。
食べてみると納得ですね。当たり前ですが,できたてのモロカイブレッドはやわらかく・しっとりとして・香りに,つい手がでてしまいます。価値あるできたての商品です。

■2003年12月2日
[モロカイ島・モロカイ・ブレッドを食べる] 第1話
信号もない、エアコンもない、エレベーターもない、おら、こんな「島」ヤダー。気さくな明るさで迎えてくれるここモロカイ島、人口約7,000人。未開発で眠っているような島。他の島と比較すると観光的な施設は少ないが、少ないがゆえの素朴さが残っている島。それがフレンドリーアイランドです。
10月31日。今日はハロウィーンです。
子供達にとっては特に楽しい一日。カウナカカイの小学校では夜6時ころから学校の広場でハロウィーンのお祭りが始まろうとしています。トイレの便器のフタを輪投げゲームに使ったり、空き缶をボール投げゲームのケースに使ったり、忘れかけてしまったお金を使わない遊びに子供達が楽しんでいます。
「金魚すくい」 はい 100円ですよ。と言うどこかの国のお祭りの光景はひとつも見ませんでした。この日だけは夜遅くまで親公認で子供達は楽しんでおりました。